先日、東大ドリームネット主催による、第6回交流会に参加しました。
交流会への参加はこれで3度目になるのですが、夢と希望に満ちあふれた学生の話を聞くだけでなく、それぞれのキャリアを築いてきたOBのみなさんの道のりを聞けるのも、この会の醍醐味のひとつです。
なかにひとり、こんな方がいました。
理系の大学院から迷うことなく博士課程へ進学。博士号を取得すると、もうその研究は済んだとばかりに、そのとき関心のあったシステム系の会社に就職。さらに、数年後には司法試験に合格(「会社員経験が合格のバネになった」と分析されていました)、現在は法曹界で活躍されています。
われわれ(とくに受験勉強慣れしてきた”要領のいい”人間)は、つい、これまでやってきたことを無駄にしないように、また、先々につながることを今しようと考えてしまいがちです。継続が途絶え、道がまっすぐ伸びていないことが、とても怖いのです。
またその姿勢は、「努力の結実」や、「先を見通した慧眼」、また「将来のための我慢」などの言葉と共に、周囲から奨励もされてきました。
上記のキャリアについても、「迷走している」「一貫してない」と揶揄する向きもあるかもしれません。
ところが、その方の、「そのときそのときのことを、淡々と精一杯行う」という姿勢はなにかもう悟りの境地なほどに、すがすがしいまでに気負いがなく、純粋に感銘を受けました。
その場には、「博士課程に進んだら将来職に困るのでは」と躊躇する院生も多くいましたが、その方は「小学校は6年間、中高は3年ずつ。だれもそこに疑問をもたないでしょう?同じように、私にとって研究とは5年間やるものだった。2年弱で満足のいく研究はできそうもなかったし。だから、迷いはなかった」とおっしゃいました。
さらに、「ああそういえば」というように、「さまざまなデータを解析取捨選択し結論を導き出す研究の過程は、さまざまな証言を解析し真実を導き判断を下す現在の仕事に、結果としてつながっているかもしれない」ともおっしゃいました。
なによりも、その方は現在の、マイペースに仕事を進められるスタイルや仕事の意義に、満ち足りた幸せを感じているようでした。
「結果として」。
この言葉には多くの意味が含まれているように思います。
”最善”の就職をしようと躍起になっている学生に向けて、「まあ、勤めてみなくちゃわかんないから、どこでもいいから働いてごらん」ということがあります。
間違ったら、そこから軌道修正すればいいのです。数年後他のことに関心が向いたら、そのとき始めたらいいのです。
「まずはやってみな」
ともすると先ばかり見てしまいがちな自分に強く言い聞かせるために、私は学生に向かって日々この言葉を口にしています。
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